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184  「しつもん!どらえもん」から [時事(政治、経済、国際)]

  

                       随想コラム:「目を光らせて」 NO.184

            「 しつもん!どらえもん 」 から
                        アオウ ヒコ

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                                        ハクモクレン

  朝日新聞に「しつもん!どらえもん」という小中学生向けの小コラムがあるのをご存知だろうか。新聞の第1面の右側、ニュース梗概欄の一番下に親しみやすいどらえもん君の顔のイラストがあり、そこに質問の短い文章が書いてある。また、使われている全ての漢字にはルビが振ってある。
小学生の年少の皆さんでも、読めるようにとの配慮であろう。

 そして、その答えの囲み記事がその日の朝刊のどこかのページに隠されている、という仕掛けになっている。
 この手のクイズでよくあるケースは、答えが同一ページ最下段に活字をさかさまにして印刷されていることだが、朝日のこの企画では、同じページにはない。どこにあるかも示されていない。
新聞をひらいてこたえをさがしにいこう となっている。


 総ページが40ページもある朝刊のどこかにあるというのだから、探しに行かねばならない。少年少女諸君にとっては、これがまた面白くてたまらないようだ。答えの囲みにも、どらえもんマンガのイラストが載せてあるから、新聞を机の上か床にでも置いて、このイラストを目印にバッバッとページをめくる。視覚からの検索である。

 一方、高齢者入りをした者にとっては、ページをめくる指の動きもままならぬからとなるから、楽ではない。「なかなか出てこないのう、見つからぬなあ」と遅々たるものである。

 「スカッと答えが出せないもんだから、こんな苦労をせにやならんのだ」と半ばおのれを呪詛しながらも「へえー、新聞にはこんなにもページがあったのか!」などと変なところで、改めて感心したりしている。

 一つには年少の頃に、ゲーム遊びなどなかったから、眼にも止まらぬ指捌きの訓練などしたこともない先輩たちだ。のろのろと探しにいく。開いたページ、めくったページのどこにも目指す答えが見当たらない。

 それでも、やーめたなどと投げ出さぬところは見上げたものである。辛抱強くページをめくる。決して止めないところは殊勝なものである。(これが戦後の、あの見渡す限り焼け野ケ原となった日本の復興を成し遂げたひとびとの今である。近時ではその後輩たちが膨大な財政赤字の新記録を樹立したりもしている。盛大に積み上げていることだが、そろそろ、何とかせねばならぬと腹を括る姿勢のようでもある。

 もう一つがある。ローレライならぬ老齢諸君は、実は大脳の引き出しに大抵の借問には「正解」の答えをちゃんと持っている。若いときから準備して、しかるべき場所にきちんと仕舞ってある。だが、引き出しの潤滑油が切れたのかどうかは分からないが、その肝心な答えを出そうとすると、ギクシャクし勝ちで、引き出しからスムースには出てこないようになってきたのだ。

 たとえば、このような具合にである。


 3月のしつもんは、ばくまつ編である。3/25日の82を例にとると、こうである。

「身分にとらわれない軍隊をはじめてつくり、幕府とのたたかいにやくだたせた人はだれかな」
(この答は本文の最終尾に記載)



「 あ、これなどなんということはない。直ぐに出るよ。名前のほうから行こうか。頭に、シンが付く名前だ。シンペイ・・じゃない。シンタロウでもない。シンは新だったか、進・信・伸・心・・いや違うなあ、心平だと草野心平じゃないか。あの字はあまり使われない字が名前の頭についていたぞ。
 

 そうだ、晋の王朝の晋だ。となると、晋吾ではなく、晋平でもなく、そうだった晋作だよ。これなら上に付く苗字はすぐに出て来るわい、高杉だよ。奇兵隊とやらを作った高杉晋作ではないかい。

と,書くかぎりでは、思考の過程にそう長い時間が掛ったようには見えないであろう。確かに記憶の呼び戻しにはそう時間はかからなかった。

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   しかし、ひどい度忘れの類となると、これをなんとか思い出そうと努力するとき、時と場合によっては、解決に至る時間がとてつもなく長くなるケースが出てくる。


 深奥の引き出しから最終的に引っ張り出すために、まずは周りの事柄を思い浮かべ、それをヒントに攻め上ろうとする戦術をとるときなど、大いに手間取り、これに要する時間がとてつもなく長い場合がある。


 引き出しに到達するまでが大変で、そこには頑丈な鍵がかかっていることもあるようだ。人名だけではない、ちょっとした名称やものの名前(普通名詞のたぐい)もそうである。

 つい最近も、どうにもこうにも思いだせなくて、そのストレスでおかしくなりそうだったのが「保守」の対立語の「リベラル」である。またしてもである。(これは前に一度話題にした。この時はヤンキースの火消し役、名投手リベラを思い出すことで何とか収まったことだった。)

 それに空前絶後の最近ではベートーベンが作ったピアノとバイオリンのためのソナタ「クロイッツェル」。なぜか、これも本当にガードが堅かった。

 思い出すのに四苦八苦した。小説の題名にもあるので、この線から辿ってみたが駄目で、1週間ほど悶々とした。ついには自分の脳の器官を総動員しても果たせず、脳内だけの作業と検索を諦めて、CDが並んでいる書棚の前に立ったことだった。

「あっ、なんだよ。そうだよおまえ、こんな簡単なもの、なんで思い出せない!」と、自らを責めたことだった。

 読み出し機能の衰えである。再び、忘れては困るので、それ以来(黒い杖のLソナタ)と覚えることにしている。

                       

 今までは、お父さんが子供に「ポストまで新聞取りに行ってよ!」と頼んでも「イヤダー」とか「自分で行けばー」などと拒否反応を示していたようだが、今は「新聞、まだ来ないかな!」と玄関まで出て配達の人を待ち侘びるまでになっているという。

 大人が読む朝刊など、見向きもしなかったお子供衆が、新聞への関心が様変わりだという。その答えを探して「どこだ、どこにある?」朝刊の一面から最後のテレビ欄までめくりにめくる姿が家庭で見られるという。

 どらえもんクイズに触発されて、おそらく学校でも友達との間で話題になっているからであろう。
「君、今朝の見たかい?」「あなた、どらしつを読んだ?」てな会話が教室で乱れ飛んでいるかもしれない。


 この企画を立てた朝日の仕掛け人にとっては、「してやったり」であろうか、その人気の継続とますますの上昇を狙って、このほど「しつもん!どらえもんスクラップブック」を用意し、新聞販売店へ行けば手渡してくれる手筈になったらしい。(2月15日のお知らせ)



 doraemon7.jpgハサミを手にして、慣れぬ手つきで質問を切り取り、同じく答えを捜して、切り抜いては糊でスクラップブックに貼り付ける姿が見えるようである。

 貼り終わって、あらためて質問を読み返し、その答えを読んでは、新しい正しい知識として脳に仕舞いこむのであろう。ランドセルに入れて学校に持って行き、仲間とワイワイ言うのであろう。


 ゲーム機を忍ばせて行くことは禁止する学校も、このスクラップブックを禁止する学校はないであろう。(お隣り、中国の学校はいさ知らず、である。)

 いつのまにか、正しい知識が少しずつ増えて行くことになる。親は親で、この小コラムにまで、目を通していなければ、逆に質問されて答えに窮することにもなる。なかなか、考えた企画を朝日は考えだしたものだ。

 このまま指を銜えて眺めていることはないとして、競合他社も時事問題を種にしたクイズなどいろいろな企画を考えているようだが、学童を主たる対象にして、結果的には大人までを巻き込んでしまった「しつもん!ドラえもん」人気には、ここしばらくは及びも付かないようである。

 出題のジャンルや質問の方法などをよく吟味さえしておけば、この企画は相当長続きすることであろう。なにしろ、材料には事欠かない。朝日ぶって、高等な高踏系列の難しい出題や、捻った回答などをしないかぎり、この企画は見放されることなく、あのサザエさんなみの寿命を記録することであろう。嬉しいことである。

 子供たちは朝刊をいち早く手にするために早起きし、目を皿にしてその日の「しつもん!ドラえもん」を探し、まずは自分で考えてみる。(これが本当に大切なことである。直ぐ答えを見るようではいけない)「知ってらー、わかっとるわ」であれば、ニヤリとし、手に負えなければ、必死にページをめくって「情報」を探しまわる。「あった、あった!」と食い入るように見入り、「よし、分かった。」と、少しばかりテンポを緩めて、しつもんと答えをハサミで切り抜くのだ。

 にわかに顕在化したこの習性に対して、父親は「親が読むまでシンブンシを切り抜くな」と言うのであろうが、「なら、お父さん、早起きすれば?」の一言で黙し、母親は「切抜きが乱暴すぎます。もっと丁寧になさい」としつけをしたつもりだが「ハサミが切れないんだよ。馬鹿でもこのハサミは使い物にならぬよ」と言われて反撃もできず「お前はバカじゃないからね」と自責の念も少しは感じつつ、ぶつぶつ言いながら文具店に行き、切れるハサミを求めてくる。


 こうして、ジュニアを中心にして、家庭における情報の収集と分類保存の工程が着々と進む。
不思議がるのは文房具店である。「このところハサミと糊がようけ出るわな。なぜかいな」である。
だが、その大切な情報の伝達もそこで切れているような気がする。


 そこで、筆者からハサミ業者と糊業者へのお知らせである。「ここは新製品を売り出すチヤンスではありますまいか。つまり「しつもん!ドラえもんハサミ」と「しつもん!ドラえもん糊」の新発売のチヤンスですよ!」である。

 なぜなら、その新製品、どうかすると朝日新聞本社販売局の総家本元が「しつもん!どらえもん」御用達品として買い上げてくれる可能性が極めて高いこと。そうでなくとも、それを使った子供衆が口々に「ハサミと糊はアレに限る」と学校で言い張る可能性が極めて高いからである。

「アレって?」「どれ、君のスクラップブック見せてみろよ、やはりそうか、切り口がギザギザでわるいし、ここなど引き裂いた痕が見える。それに糊もはみ出してらあ」「はあ?」「どらえもんを切ったり、貼ったりは、やはり純正品に限るってことよ!。のびた君もそう言っているらしいぜ」「そういわれれば、そうね」として、純正納得組が次々に増える気配もある。
                        

 数日前から日経が電子新聞の草分けらしきことを創めたから、今までよりもこれに時間を割いていることもあるが、まだまだ、紙のほうへ使う時間が圧倒的に多い。特に朝刊の4~5面くらいまでは、毎日じっくりと時間をかけて読む。

 その後で、一面の右下に目をやり、本日のどらえもん君へ挨拶し、ゆっくりと質問に出会うことにしている。余裕である。


 この企画は今年になってから始まっているようで、つい最近までは、そんな簡単な質問など答えられぬわけがないではないか、時間のムダだとしてチラとも目もくれてやらなかった。

 だが、地球篇の一つに「世界で一番長い川はなんだろう?」という質問があった。なんだ、ミシシッピ川じゃないか、と昔教わった古い知識を脳の引き出しからさっと引っ張り出して満足していた。なにも解答欄を見ることもないことだ、としてである。


sayama0002.jpg ところが、その日の新聞の学芸欄かそこらのページに、その答えがあるのに出あったが、その正解は ナイル川 であった。

 あれ、ミシシッピ川じゃなかったの?という思いで、承服し難い思いに駆られたことだ。

 だが、答えの終わりのほうに「昔は最長の川はミシシッピ川として教えられた時期があります。その後の調査でナイル川が最長であることが分かって、ランクが下げられた」旨の丁寧な付言が付けられていた。


(いまどき、世界最長の川はミシシッピ川だと言い張ったら、子供たちに笑われまっせ)という冷笑気味の付言だったか、あるいは先輩への優しい気配りであったのか。

 なるほど、知識と言うものは更改を要するものがある、と気付かされた。ちなみに現在では、世界の川を長さの順でランク付けすると;

ナイル川   6662 km
アマゾン川  6400 km
ミシシッピ川 6210 km の順だという。(広辞苑他)

 だが、このほかにも、中国の長江 6300 kmなども、今後の調査次第ではもっと数字が延びて上位に食い込む可能性もある、ということだった。

 ミシシッピ川が世界最長の川とされていた頃は、文明が開けて調査が行き届いたところからのランク付けであったのであろう。人跡未踏の奥地にまで踏み込んで調査が行われるようになったのは、その後のことである。

 また上空からの観察や宇宙に打ち上げた衛星を利用した観測技術の進歩によって、川の長さなどが精密に測定されるようになったのはつい、最近のことであるようだ。あまり、古くからの一つ覚えを振りかざして、知ったかぶりをしてはならぬことを、どらえもん君に教わったことだった。
                       
 」また、記憶庫に分け入ってよく辿って見ると、英和辞書を引くようになったころ「一番長い字数を持つ単語は何か知っているかい?」と言うような遊びとも話題とも付かぬやり取りを交わしたよう記憶が残っている。「それはMississippi(ミシシッピ川)だよ」というのが。
 sayama0016.jpg確かに字数も11字あり、短い単語ではない。単に字の数だけの視点で他に探せば、おそらくこれくらいの長さの字数を持つ単語はいくつもあるような気がする。

 当時、世界で一番長い川はミシシッピ川とされていたことから、これをもじって最長の字数をもつ単語はMississippiだと記憶してしまったきらいもなきにしもあらじである。

 また、これとは別に世界最長の字(単語)はsmilesだという一口噺もある。
との間が1マイル(mile)もあるからという理由である。
 しかし、実在する単語としては、ものすごく長い言葉があるという。これはあるwebからひろったものだが、ことのついでに記しておこう。


 見てみると、確かにMississippiとは段違いである。
 それは医学用語で pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis だという。数えれば45字ある。
これを日本語で表すとたったの3文字「塵肺症」で済むというから、日本の医者は幸いなるかなである。向こうの医者で、このスペリングを正しく一気に書ける者はそうザラにはいまい。途中のどこかで間違えるのではあるまいか。もっともよく眺めていると、見知った単語のいくつかに出会うことから、この言葉が多重語であることに気付き、いくつかに切って記憶すれば、そんなに難しくはないようでもある。
                        
 3月下旬のしつもん!どらえもんは日本歴史の幕末期にスポットを当てて「ばくまつ(幕末)」として出題されていたが、それ以前は「ちきゅう(地球)編」というジャンルでの出題がなされていた。宇宙に浮かぶ星としての地球、太陽系の惑星としての地球、その誕生、時間、地殻変動、そのほか天文学のジャンルからの出題であり、すぐには即答できぬものが多かった。

 そのなかで次のようなものがあった。


   68 ちきゅう篇 (3/11)
 

しつもん地球は1日に1回転しているよね。私たちは新幹線の何倍くらいのはやさで回っているの。(答は最終尾に記載)

 良い質問である。と言うのは、地上に脚をつけてすっくと立っているあなた、わたし、どんなに感覚を鋭く、辺り四方を見つめていても、自分がどこかに移動させられている、動いているという感覚になることはない。空を吹き抜ける風が下界に降りて台風にでもならなければ、身が持って行かれる感じにはならない。

 地球の地殻運動のために生じた地震が伝播して足元の大地を揺らすときの上下左右の振動を感じることはあっても、大地そのものが急速度で移動している感じとは縁遠い。


 がっしりした頑強な岩盤の上に作られた大地が不動のものとして在って、太陽や夜空に青く輝く星くずたちがその周りで廻っているとしか感じられないことである。

 そこへもって新幹線の何倍のスピードかと問うのだから、見当が付かない人続出であろう。学童からは、こんなの分かるはずねえよ!の声が出たのではなかろうか。



sayama0019.jpg 人類にとって、親愛なるコペルニクス(14731543)が現れて、地球その他の惑星は太陽の周囲をめぐるという地動説を唱えた(1543)ときも、宗教家や学者も多くの庶民もそりゃないぜ、と感じたであろう。

 コペルニクスの新説(地動説)と当時定説であった地球中心宇宙説(天動説)の二つに意見が分かれた頃に生を享けていた人たちは、どっちに与(くみ)するか、と自らの大脳に問うたことであろう。

だが、まだまだ乏しい大脳の知識庫からは、判断に資する知識など何一つ出て来なかったことであろう。

 コペルニクスが地動説を唱えた時、彼は死の床にあったという。彼の所説がコペルニクス的転回を見せ、全地球を覆うようになるのを、生きた目で見ることができたのかどうか。今年はコペルニクス没後467年である。その偉大さに改めて脱帽するとともに、今後も、それこそ、破天荒な旧来知識の逆転新説が現れぬとは限らない。その時は旧来からの定説をただひたすら墨守する姿勢をとる人間にだけはならないようにしたいものである。

 天文学を少しでも齧っていれば、このしつもん!地球自転のスピードについて、少しは見当が付くというものであろう。だが「地球は動いてはいないようだよ」などと、現代におけるアンチ・コペルニクス論を平気で口にするご仁は、このしつもん!どらえもん NO.68には答えられまい。

 いま、日本では幕末の時代を中心にした「龍馬伝」が人気であるが、黒船の来航をきっかけにして「尊王か攘夷か」「鎖国か開国か」などと迫られたときも、さてどちらにつくか与(くみ)するかを決める知識が決定的に不足していたことだ。龍馬君が「攘夷ってなんぞえ? 教えてつかわせ」と叫ぶシーンがそれである。

 ここまで書いてきて、少しばかり、翻然として悟るところあり、であった。

 しつもん!どらえもん を少年少女諸君を対象にして、朝日が企画したものと思い、ついつい小ばかにしがちの筆を進めていたことである。だが、待てよ、これはあに少年少女諸君への問いかけのみにあらずや、と思い始めたのである。

 まだ沢山の漢字の読み方を知らない少年少女のために、漢字に振りがなをつけることはきわめて大切なことである。と同時に、いまや漢字の読み方をば失念し始めた熟年以上の高齢爺じ婆ば への高邁な配慮であるかもしれない、と思い始めたのである。

 sayama0024.jpgかつて、数寄屋橋の上で真知子巻きを首に巻いたヒロインが「忘却とは忘れ去ることなり」のラジオドラマで、忘れたいのに忘れられないのは悲しい、と嘆くヒロインの姿に共感し、紅涙を絞った爺じ婆ば向けの、物忘れ防止のレッスンを兼ねているのかもしれない。

 そのために漢字にはルビがつけてあるじやないか、と固く思い始めたのである。

(ようやくお判りめされたようでござるな、小さいルビの振り仮名は伊達にはお付け申してはござらぬ)との声が、どこからか聞こえて来ることである。

 となると、なになに老化防止の妙案があるのかい、として、爺じ婆ば連が新聞を取りに玄関まで急ぐかもしれない。それに気付いた孫たちの早脚に負けまいとするかもしれない。

 ああ、それは何とかの冷や水でござるぞ。危なく転倒の事態が待っているかもしれないことだ。ここは、ゆるりと参ろうではござらぬか。なにごとも余裕、よゆう、曾呂利新左衛門で参りましょう。

  しつもん!どらえもん」へのこたえ(漢字のルビ省略)
68 ちきゅう篇 (3/11)  こたえ:4~5倍。
 人も一緒に回っているから速さを感じないけど、東京なら時速1360㌔。赤道に近いほどはやい。ふり飛ばす力より引力がずっと大きいから地上にいられるんだ。

82   ばくまつ編 3/25 こたえ:高杉晋作。
 長州藩で桂小五郎のなかまだった。武士や農民といった身分をとわず、やる気のある人を兵にした奇兵隊をつくった。お相撲さんが中心の力士隊なんかもあったよ。

                                     (2010.4.1)

(注)本文中、緑色表記の個所は外部資料からの引用を示します。(筆者)


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1.RE.しつもん!どらえもん

アワオ様 何時も楽しい資料有難う御座います。さて、沖縄旅行、楽しいですね。

私も、沖縄へ行ったのは、十分昔になります。当時とは随分変わっていると思います。
楽しんできて下さい。(2010.4.2  S・しげお

2.RE.しつもん!どらえもん

お帰りなさい、長旅で少しはお疲れのことと存じ上げます。標題のコラムについては全く知りません
でした。物心ついて、朝日の愛読者と自認していたが、いいかげんなものですね。


私も先月末に四国88ケ所参りをしてきました。4年にわたってのお参りでしたがやっと完遂しました。ただただ感謝しています。貴兄におかれては旅の疲れを癒し、益々のご活躍を祈っています、皆様に宜しく

 (添付)   リーダーシップ

 ゴルフは色々な資質が要求されるが、身体の柔軟性が最も必要な資質のようだ。柔軟性に欠けるゴルファー
はどんなに努力しても上手くならない。


 同じ論法で、政治家の最も重要な素質はリーダーシップだと思う。先日、朝日の天声人語欄で日清戦争後に
三国干渉により侍の国日本は屈辱にうちに遼東半島を返還する選択肢をとった陸奥宗光のことが記事にあった。

 同じように日露戦争後の講和条約締結で小村寿太郎の決断は、当時戦勝で浮かれていた日本国民殆どが売国奴、腰ぬけ外交として批判されたが、毅然とした彼のリーダーシップにより日本国を守りきった。

 現在、普天間基地にからんで日本の安全保障を含め日米外交の帰趨を国民は刮目(かつもく)している。国と国との外交は血を流さない戦争とも云われている。国益と国益の衝突である。

 ドイツのクラウゼヴィッツは相手国が我が国(仮にドイツとしよう)へ自国の意思を強要しようとするならば、我が方が必要とするだけの犠牲を相手国に払わせなければならない。払わせるだけでは全く足りない。
われわれは相手国をもっと不利な犠牲がでる状況に追い込まなければならない。勿論、このような相手の不利は一時的なものであってはならない、もし一時的だと相手が判断すれば相手は後に到来するかも知れないチャンスに反撃してくる、結局相手国を屈服させることはできないと明言している。


 お人よしの日本人は、とにかく私を信じてもらいたい、同じ民主主義の国同士だからこれを譲るからこのことだけは日本に譲歩して貰いたい、という甘えと寛容を期待するが、こんな思考方式はなんの力にもならない。
 一つ譲歩を依頼すると、その何倍もの代償を払うことになる、ということを日本人は肝に銘じておかなければ
ならない。


国民が政治に参加する政体では、世論が政策決定に大きく影響を与える。特に外交、安全保障などの領域では、
国益を基本にして指導者は勇気を持ってリーダーシップを発揮して決断して貰いたい。ただこの決断が国民の多くの意思と異なる場合があるが、政治家は国民に情理を尽くして説明する責任がある。


 全く同じことが企業のトップにも云える。もしこの決断ができない国の指導者、企業の社長がいるなら、その国の、その企業の将来は長くない。

最近心配しているのは、国の内政において財政規律、経済の成長政策をどうしようとするのかが、はっきりし
ないことである。国の将来より目先の選挙、政党の利益、個人の名誉等を優先させるような指導者は、民意を理由にして国民に心地よい判断をして、将来取り返しのつかない事態を招くことがよくある。るいは重要な決定判断を直ぐしなければならいのに国民の声を恐れて決断を遅れさせたりもする。
結果として国は破滅への道を急ぐことになる。


 国の外交、安全保障、経済の成長などはすべて首相のリーダーシップによる決断によって決まる。
だからと言って読み書きのできない指導者の決断は信用できないので、この場合論外としよう。


                 (2010.4.07  U・てつぞう



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