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 442 茜(あかね)色に染まった洋画家 青沼茜雲 (1) [交友 哀惜]


  随想コラム 目を光らせて NO.442   

   復刻 (NO.168 2009.8.1)  


 


     随想コラム「目を光らせて」 NO.168 交友 哀惜


 


     (あかね)色に染まった洋画家 青沼茜雲(1)


                   アオウ ヒコ


 


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 昨年の観桜会では、会を終えた後の一日を、九州が誇る八女市在住の洋画家、A・せいうん(茜雲)君の誘いで八女市に遊んだ。このとき車を出してくれて、久しぶりに八女地方をめぐり、あれこれ面倒を見てくれたのはT・ふじお君だった。この時はN・まこと君も一緒だった。総幹事のO・まさゆき君が観桜会後の私のスケジュールに触れて、事前にT・ふじお君に口を利いてくれて「済まんが面倒をみてくれ」と頼んでくれたようだ。(今年のO・せいいち君への依頼と同じくである。)


 


 T君は仲のよい洋画家のA・せいうん君に声を掛けて「それなら八女市へ回ろう、昔、筑紫の君 豪族磐井が里。今、翔んでる女優 黒木 瞳と茜色に染まった洋画家 青沼茜雲が里への案内だ」と決めたようだった。熊本のホテルをチエックアウトしたあと、バスは久留米まで送ってくれたので、一行は一度T君の家へ行き、彼の筆になる作品を収蔵したTギャラリーに立ち寄り、彼が世話した老人から譲り受けたという浮世絵コレクションを鑑賞した。


   


 また、A・せいうん君がT君の結婚式に際して贈ったという裸婦の油絵を見せてもらった。初めて見る作品だった。A4大の小さい作品であったが、さすがに、未来の大画家を髣髴とさせる才能がほの見えしたことだ。


 


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 私が「これはいい、これはいい」と賞賛するものだから、せいうん君は「ほかの絵をあなたにあげるから、この絵をぼくに返して呉れないか」と懇願しはじめた。だが「ダメ、ダメ、ダメエー」とT君は絶叫して絵を胸に羽交い絞めにして、ひたすら守りに徹し申し出を退けた。どうも、この返還論争は相当前から続いているらしかった。


 T君が車を出してくれ、折から満開を迎えた篠山城の桜を見に行った。桜の下には成人式の晴れ姿の親娘とレフを持ったその友人たちに出会い、しばし、交歓した。


 


 久留米を後にして、八女から、黒木へとドライブし、青沼君が大作のほとんどを収納している、黒木の旧料亭の座敷に案内された。みずからのアトリエでは収蔵しきれなくなったのであろうか、あるいは全国各地で開く個展のための送受基地として便があるのか、彼の作品の多くがここに収蔵されていた。


 


 ここで、多くの作品を観賞したあと、せいうん君は私が岩井の絵を見て詠んだ「短歌」のお礼だとして「大宰府天満宮 貴族参拝」の版画を自ら署名して呉れた。みずから大事そうに巻き、クッションビニールで保護して持たせてくれた。好きな作品であっただけに、思いがけない幸せに与った。


 


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                                                     大宰府天満宮  貴族参拝


 


 また、昼飯はT君が和風の懐石料理を馳走してくれた。「講演料が入ってね」と粋がっていたが、彼一流の照れであったかもしれない。ここでは盃で戴いたほんの少々の八女茶玉露のエスプレッソには甚く感じ入った。芳醇な茶のかほりと甘みの精髄が口いっぱいに広がったことだった。


                          


 八女市は、私が住む埼玉の狭山市の狭山茶と同じく、八女茶の産地で名高いが、いまから歴史を遡ること1489年前(520年頃)筑紫の国造、豪族磐井がこの地方を領して勢力を得、時の大和朝廷、継体天皇の意のままにならずの時期があった。ついには大陸政権との密約があったとの廉で磐井は謀反の罪を着せられ、これに従わなかったために兵を送られる。ついには豪族、筑紫君 磐井も高良山の麓、三井郡で壮絶に交戦したものの、ついには敗北する。


 


 この戦いが、俗に言う大和朝廷に対する「磐井の反乱」である。「反乱」という言葉を使うと、筑紫君磐井に一方的に非がある集団とするニュアンスで充ちるが、筑紫地方の民には名君として慕われ、経済も隆盛で、生活も豊かに回っていたとすれば、なにも大和朝廷に反乱する理由はないことである。


 あまりにもこの地方の勢力が伸張していたことや、海を隔てた隣国政権との通商取り決めにおいて独断専行に近い行為があったことが当時の朝廷の意にそぐわず、折あれば殲滅してくれようと機会を窺っていたのであろう。


 


 直接的には、磐井が大和朝廷への朝貢を怠ったことを理由に、取り巻きは朝廷に対する謀反、反抗を示すものとして、九州筑紫国の磐井征伐を主張、致し方なくか、自ら率先してかははっきりしないが、時の天皇、継体天皇は筑後の国への遠征軍の指揮官を指名、まもなく筑紫君磐井の地への出陣となる。


 進攻軍を撃退しようとする磐井軍の抵抗に遭えば、いまでいう政府軍は、得たりやおうとばかりに、圧倒的な兵力を注力しての戦いが始まった。高良山麓の三井郡一帯で行われた戦闘は一進一退であったらしいが、最終的には磐井は敗れ、斬殺される。


 この戦いが終わると共に、勝てば官軍の名のとおり、大和朝廷は九州「磐井の反乱」を「鎮圧」したとの記述で、歴史に位置づけた。この事件について「古事記」は詳しくは語らない。物部荒甲(麁鹿火)と大伴金村二人を派遣して石井(磐井)を殺した、というだけだ。


  『古事記』


 この御世に、筑紫の君石井(いわい)、天皇の命に従はずて、礼無きこと多し。かれ、物部の荒甲(あらかひ)の大連・大伴の金村(かなむら)の連の二人を遣はして、石井を殺したまひき。


 


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筑紫の君 石井(いわい)


 


  だが、「日本書記」にはかなり詳しい弁明とも言える記述がある。「古事記」に費やされた記事の量を1とするならば、「日本書記」では18、約20倍の記述の量がある。この事件、少し詳しく書き遺すことが後世のためにも必要、としたのであろうか。 


『日本書紀』は継体天皇22年(528年)に磐井の反乱があった、と伝える。天皇は物部麁鹿火を将軍に指名して、三井郡の交戦でついに磐井を斬り殺し、反乱を鎮圧したとある。


 そのことを記述した部分を下に示す。相当な激戦であったようである。戦後の収拾についてまで、日本書紀の記述は及ぶ。


 


『日本書紀』: 継体天皇二十二年の冬 十一月の甲寅(きのえとら)の朔(ついたち)甲子(きのえねのひ)に、大将軍(おおいくさのきみ)物部大連 麁鹿火、親(みづか)ら賊(あた)の師(ひとごのかみ)磐井と、筑紫の御井郡に交戦(あいたたか)ふ。旗鼓(はたつづみ)相望み、埃塵相接(ちり、あいつ)げり。機(はかりごと)を両(ふた)つの陣(いくさ)の間に決(さだ)めて、万死(みおす)つる地(ところ)を避(さ)らず。遂に磐井を斬りて、果して疆埸(さかひ)を定む。


 十二月に、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)、父の罪に坐(よ)りて誅(つみ)せられむことを恐りて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献(たてまつ)りて、死罪贖(しぬるつみあがな)はむことを求(まう)す。


 


 磐井の子、葛子が父の罪業に連座しての死を免れるために糟屋屯倉を献上して死罪を免じてくれるように言った、とまで記録に残している。果たして罪を免じられたか、却下されたか。その帰趨は別として、この地には日本書紀 継体天皇21年(527)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓がある岩戸山古墳があり、今もなおこの地には、壮大な墳墓のほか、磐井の名を偲ぶ文化が脈々と受け継がれている。


 


     洋画家 磐井を祀る墳墓の近くに家を建てる


 


 前にも一度、八女市の磐井の古墳、旧蹟などを見るために、この地を訪れたことがある。この時は、E・やすし君の車で、T・ふじお君が同乗していた。


 これは、もう10数年も前のことである。まあ、車中の会話の、磐井ではなくて、卑猥にしてにぎやかであったこと。その中心はT君であった。その話、真に受ければあまりにも羨ましく、ちょっと首をひねればほんにつまらんわいの談であった。


 


 それはともかく。新進洋画家として名乗り上げていたA・せいうん君が、この筑紫君磐井について、並々ならぬ関心を寄せ、それが高じてこの地に移り住んだと聞いていた。八女郡広川町である。ここにアトリエを開設したというから車を廻してもらった。
 
洋画家のアトリエと聞けば、モダンな洋館を想像するのではなかろうか。だが、彼の場合は違った。どこにでも見かける普通の和風の2階建て住宅である。


 



 


幸い、彼は在宅していて突然の訪問にも係わらず、家の中に招じいれて大いに歓迎してくれた。アトリエは2階の奥にあり、そこはすでに画家の巣であった。彼は妻帯せず、限りある時間を惜しむようにカンバス相手に格闘し、精進する日々を過ごしているのだった。


 家屋のことを尋ねたが、もうその頃から、彼には熱心な信奉家がついて居て「先生の絵ば私に描いてください。そいで、私はこの家を建てまっしょう」といい、約束とおり、この家を建ててくれた、ということだった。


 


 驚かされたこともある。玄関を入るなり、1階の大広間にはあらゆる日用品、衣服類、書類、その他物品のもろもろが、一見無造作に小積んであるのに目を瞠った。一見するところでは、乱雑に抛りっぱなしにしてある風情である。しかし、人が歩く通路らしきものは狭いながら出来ている。残してある。


 


 新築アトリエに入居して数年経つ内に、そのカミニート(小路)の両側はいつの間にか、そそり立つとは言えないまでも、両壁に近い存在になりかけている。歩くにも難渋するカミニートよ、であるしかし、どこになにがある、という彼の記憶は確かなものであった。どこそこの小積みの左脇の下にはハガキがある、「探してみてー」というからそこを探ると確かにハガキにたどり着く。それは、それは、繊細な神経が徹っている。


 一見、乱雑にしているのだが、計算ずくで物が配置されている。そのそこには精緻な描写力、設計力が隠されているとでも言うべきか。舌を巻かされた大広間のカミニートと小物たちであった。


  A・せいうん君はこのアトリエで、ただ一人、絵の具にまみれ、絵筆を揮いで、絵画の芸術に没頭するあまり、食事も忘れがち、睡眠もままならず、夜もなく昼もなくの精進であったようだ。しかし、そのお蔭で、すでにこの頃、彼は自分の画風というものを確立し始めていた。地元の「磐井の会」ともタイアップして「磐井」君のポスター描きにも参加し、地元の学校で行われる「磐井」を主人公にした演劇にも何年も参加した。


昭和54年 磐井劇ポスター原画依頼(第1回)~平成10年(20回)最終会
いつのまにか「磐井君」はA・せいうん君の脳裏で美の主人公として存在するようになる。


 


          天空を行く磐井


 


 そして彼の洋画家としての本格デビューともいえる作品「天空を行く磐井」が脚光を浴びたのが平成7年(1995)のことだった。 


       


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                  天空を往く磐井                    


この作品は全国17の有名神社から借り受けた神社秘蔵の名作40点を集めて、伊勢神宮の「神宮美術館」で行われた「神々に捧げた美と技-全国神社秘蔵近代美術品展-」と題した特別展に出品された。


日本画の大家たち(横山大観、上村松園、小野竹喬、鈴木清方、堂本印象、富岡鉄斎、前田青邨、棟方志功など)、洋画の巨匠たち(小磯良平、須田国太郎ほか)に混じって、生存する画家の作品としては青沼茜雲だけ、ただ一点選ばれ、展示され賞賛を浴びたのだ。


 


 今、この作品は大宰府天満宮の宝物殿にて展示がなされている。大宰府参りをするたびに、この絵の前に立つことだが、初めて見たときの感慨が今さらながらに沸き立つことである。いわく、「天空を往く磐井」である。


 


    (続く 168-2 (あかね)色に染まった洋画家 青沼茜雲(2)


 


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442-2 茜色に染まった洋画家 青沼茜雲 (2) [交友 哀惜]


              随想コラム「目を光らせて」 NO.168-2 観桜五善会7


    (あかね)色に染まった洋画家 青沼茜雲(2)


                    アオウ ヒコdatto4.jpg                          
 あれから、もう14年が経つ。この間に彼の画業は進歩を続けたようだ。そのほとんどを目にしてきたことである。彼が外国の幾つもの画壇との国際的な交流を経て、頂戴した賞は数多ある。主なものを下に掲げる。


1977 フランス国際美術展サロン・ドトンヌ入選。(S52.57年 連続7回入選)


1983 フランス国際美術展サロン・ドトンヌ会員に推挙される。
2001
 アート・オブ・ザ・イヤー2001年 グランプリ受賞。
2003
 世界贅術遺産認定作家大賞受賞
2004
 アメリカ(ニューヨーク)21世紀のジャポニズム展ニュヨーク贅術大賞受賞
2005
 オーストリア・ウイーン日墺芸術交流祭 優秀芸術大賞受賞
2006
 ノルウエー美術展、ノーベル財団認定作家
2008
 北京オリンピック贅術祭出品(世界芸木大賞・特別審査員賞)


 これらの間につみ増した画業の厚みが、近作では永年の自己研鑽の集積として、豊かに実る作品の数々として現れているようだ。私なりに思う。彼の画業を支えるものはなにであったか。列挙してみよう。


1.「磐井」が生きた時代への心の巡航。


2.これにまつわる宗教色とも言えるものへの精進。


3.古代日本の貴族文化が持つ繊細さへの賛美。


4.朝夕の空に広がり、たなびく茜色のバリエーションの探求。


5.究極の光彩を放つ画材としての金箔の塗布技法会得。


6.漢字・かな詩文の毛筆描きによる黒色カリグラフィー化(文字的形象の試み)


 などなど、であろうか。 彼が「わが心の産土」として、日夜訪れた岩戸山古墳は彼のアトリエの近くにある。公道を隔てて、百メートルも離れていないところにある。



若い頃の彼は、朝な夕な ただ一人、茜さす しののめの朝ぼらけと焦がすばかりに茜色に染まる夕焼けの空と雲を仰ぎ見ながら、磐井が眠る墳墓への道を行きつ戻りつしたことであろう。いつのまにか、彼の雅号は「茜雲」となっていたことである。その古墳の概要を紹介しておこう。彼の画業を知る上で忘れてはならないことの一つである。



     八女古墳群 岩戸山古墳


 八女丘陵は東西10数㌔におよぶ丘陵である。この丘陵上には12基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。
八女古墳群のほぼ中心に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135㍍、東側の後円部径約60㍍、高さ約18㍍、西側の前方部幅約92㍍、高さ約17㍍、周濠、周堤を含めると全長170㍍になる。
墳丘は二段築造で、内部主体は未発掘のため不明である。古墳の東北隅には周堤に続く一辺43㍍の方形の区画(別区)が存在している。


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   岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓であり、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。


 古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰石でつくられた多量の石製品が埴輪とともに出土している。 種類も人物(武装石人、裸体石人等)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?・犬?等)、器材(靭・盾・刀・坩・蓋・翳等)があり、円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。石製品は埴製(土)を石製に代え、さらに実物大を基本とした所に特徴がある。(岩戸山歴史資料館


    大宰府での歌碑の茜考


   昨年は大変お世話になった彼(T・ふじお君)との再会を楽しみにして九州に来たが、今年はなにか、目に入れても痛くない可愛いロシア系の孫の慶事にかちあったとかで、観桜会には姿を見せなかった。九州にいる間、残念ながら会う機会がなかった。


 今年の観桜会では、A・せいうん君とも柳川の料亭「お花」での懇親会の席で短い、せわしない会話を交したに過ぎなかった。


 だが、彼が大宰府で、個展「神に捧げた絵画展」(平成2年3月19日~510日)を開催中であることを告げたことから、即答した。「46日(月)に帰京するから、その前に大宰府に立ち寄ります。11時ちょうどに尋ねますよ。携帯があるから便利。作品を見るのが楽しみ!」「待っていますよ」


                     
 そして当日4月6日、天候は快晴だった。滞在中お世話になったO・まさゆき君の家にちょっと立ち寄りお礼を述べた。タクシーを呼んでもらって、西鉄久留米駅へ。そして大宰府へ。時刻とおりに10/50に大宰府に着く。手荷物のコロコロを預かり箱に入れたりしているうち、ジャーンと携帯が鳴った。


 10分もあれば十分だ。約束の11時には太宰府天満宮には悠々着くとしていたが、実はこの時、せいうん君はまだ、到着していなかったのだ。「今日は絵の入れ替え日に当るので、いま替わりの絵を車で運んでいる最中です」という。道が少し混んでいるともいう。「約束の時間には少し遅れます。ですが、宝物殿事務所の女性の方に電話で話しておきました。右側の門を開けて置くそうです。そこから入って下さい」という。


 「右側の門より入れ」か、と彼の指示のとおりにうごけば、すんなりと門が開き、天満宮美術館事務所の女性従業員に出迎えられる。親切な応対からも、かれが普段いかに優しく彼女らに接しているかがはっきりと判る。こちらも、彼の顔を潰すことのないように気をつけねばならない。ご本尊は居なかったが、会場のありかを教えてもらい、個展の会場に入る。入場口からすぐ左手にある会場である。本日午前中は絵の入れ替えのためにクローズ、午後からは参観者を入れる予定とした個展会場はわたしのほか、誰も居ずである。広々とした展示会場の作品を順序だてて一つずつ丁寧に観て歩く。ニコンも取り出して遠慮なしの撮影である。


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 その日は折悪しく、九州博物館は休館日に当っていた。時間が余れば博物館へでも、という思いが断ち切れているだけに、彼の作品を舐めるように観るに十分な時間に恵まれた。

 そのうち、彼も到着して、会場に姿を見せた。もう永い間の付き合いである。そう、べらべらと話し合うまでもない。展示してある絵は「どう?」「いいね。いいよ。」くらいのものである。積もる話をありったけ開陳したりすることは滅多にない。映画でも音楽会でもオペラでも、傑作の部類にまで昇華している作品に出会い、これを真正面から根を詰めて観賞した後は、決まって言葉を失うものである。無口のままでいたいとする脳の働きというか、指示があるようである。


 その作品に圧倒的に打ちのめされたときは、なおさら無口の時間が延びるものである。そのうち、時間が経過するとともに、ゆるゆると言葉も出るようになるし、無口状態から次第に脱して、通常に戻り、饒舌まがいまで行くこともある。「今日はどうでしたか?」と訊かれれば,「だいぶ無口」という返事がもどって行ったことだろう。
                      


 昼時になって「少し、早いですか。お昼は?」と彼が言い、会場で展示絵画の模様替えの手伝いの青年一人と共に、天満宮菖蒲園の畔にある付属休憩所で、チャンポンの馳走にあずかった。
 菖蒲園の淵に沿って宝物殿の方へに戻り歩きをしていると、A・せいうん君が突然立ち止まって「アオウさん、ここで一枚写真を撮って下さい」という。見ると、園内のあちこちに設けられた歌碑の一つの前にして彼は立ち止り、動かぬ風情である。なるほど、歌碑ねえ、と立ち止り、歌碑を読むと


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ひと時は 茜といへと 雲を焼く 

  大き自然や 限りなき空や  とある。


「お望みならば、もちろん撮りましょう」と私は言い、カメラを構えて撮影した。


 この短歌がだれの作品であるか、はっきりとは読めなかったが、後半の言葉の選びに不満で、もう少し何とかならんものか、と口にした。 めずらしく彼が口を開いて「たとえば、どのように」と訊く。その時は、普段のようには代替すべき言葉がすらすらとは出ずに返事に窮した。


 後で考えると、なによりも茜(あかね)が好きで、せいうん(茜雲)の名を名にし負う彼であれば、あかね色に染まる雲を歌ったこの短歌は、いかにもぴたりとそぐう、せいうん(茜雲)賛歌、大きな自然にたいする限りない賛歌になっているではないか。


 これは余人をもって代え難しの部類に属することに気付いたことだった。A・せいうん君も単なるせいうん(茜雲)に留まらず、もっと大きな存在までに飛翔なされ、という具合にこの歌を解釈するとなると、彼にとっては実にかけがえのない大事な歌(短歌)であることに改めて気付いた。


 彼はとうの昔に何となくおのれの身にかかわりがある歌だと感じていたのではないか。だから、グッド・カメラマンが来たチャンスを捉えて、撮影を迫ったのであろう。素晴らしい一期一絵であったことである。


                     


1時過ぎまでには福岡空港に入りたかったので、まもなく彼とは別れの時間となった。すると、彼は「車(絵を運んできた小型トラック)があるから、これに乗って二日市まで行こう。送ります」という。


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 「手荷物を大宰府駅のコインロッカーに預けてある」というと「そこに取りに行こう」という。

 そんなら、という気になって車を見ると、後部が荷台になっている軽トラである。ここに絵画を載せて来たものである。見ると助手席は一つである。これに三人が乗るとなると問題が出る。


 そこで、「私はどこに乗るのか」と訊くと「助手席によ」という。「では、お前さんはどこに乗るのか」と訊くとうしろの荷台に乗る、という。いつもそうしているから大丈夫だという。 思わず、怒りが爆発して、声を荒げた。「馬鹿は休み休み言えだ。荷台に乗るなど冗談じゃない。おまえさんは大事な人じゃないか!助手席にちゃんと乗りなさい」と車内に押し込み、「じゃ、また」として、せいうん君とはそこで別れた。


 わたしの興奮はすぐに収まり、大宰府からの電車もつつがなく走り、二日市~福岡、福岡空港へと出る。 空港ロビイでは仲間のK・あやお君と出会い、ジェットの席を隣り合わせに確保していることがわかった。 そのうち、N・まこと君が見送りに現れて「これは私が漬けた床漬けです」として土産を呉れた。そのうち、観桜会の仲間I・さだとし君が現れ「ANAの当日切符を手に入れてね」と、嬉々満悦の報告があった。 機内では、隣席のK君とコップ酒とアゴの味付け干物をつまみにして酒盛りをした。彼はスチューワデスに「氷はないか」と尋ねたが「ございません」との冷たい返事が返ってきた。ジェット機は新機材のため快適に飛行して、定刻に羽田へ安着した。観桜五善会の皆さん、どうもありがとう。                                                                        


(後記)この後、青沼茜雲君からの電話がかかってきた。「元気でいるうちに、東京・銀座で個展を開くことにし、いま計画を進めている。915日から2週間の予定だ。詳細が決まり次第、お知らせする、よろしく。」との内容だった。ヨーロッパでは、彼の作品「雅楽」シリーズが人気で、翔ぶがごとくに成約を重ねているとの嬉しい報告もあった。


 そして予定通り東京銀座での青沼茜雲個展が行われ、在京の仲間も手伝い、多くの人が参集した。東京にいた友人、知人が会場に集ってくれた。盛会裏に個展がおわり、青沼茜雲君は満足して故郷に帰っていった。


 


 その後、私は九州へ帰省の都度、久留米で青沼茜雲君の出迎えを受け、酒杯を傾けて健康を確かめ合った。彼は精力的に外国向けに画業を進め、多くの称号を得、成果を得たようだった。


 ああ、その後、時は静かに流れていたのだ。そして、つい、この2021年3月、彼は病を発し、ついに命を落とした。絵画と神に捧げつくしたわれらが友、西洋画家青沼茜雲が逝去した。九州の仲間から電話で訃報に接した。42日に葬儀が行われた。旧友の死を悼むとともに、彼と過ごしたこの世紀がなんと充実していたことか、改めて味わいつくすことにしたい。


 ふと思いつく。11年ほど前(2009.8.1)に洋画家青沼茜雲の紹介をした小生のブログへのビジター数(NO.168へ3927)(NO.168-2へ1371)を、ここで復刻して皆さんに提供し、彼の偉業を改めて確かめてもらったらどうかと。我が家では彼の絵に話掛ける日が続く。(筆者)


                 


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